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遥かなるルネサンス

1582年(天正10年)2月20日:天正遣欧少年使節四人がイエズス会巡察師ヴァリニャーノに率いられて、ローマを目指して長崎を出港

同年6月21日:織田信長、本能寺の変で没

1585年3月23日:ローマで教皇グレゴリウス13世に謁見

 

 ウフィツィ美術館の全面的な協力を得て開催される『遥かなるルネサンス、天正遣欧少年使節がたどったイタリア』展が4月22日~7月17日、神戸市立博物館で始まりました。この展覧会のキャッチコピー【メディチのプリンセス、初来日】に引かれて、展覧会初日に訪れ、可愛らしいメディチのプリンセスと対面してきました。このプリンセス《ビア・デ・メディチ》は、トスカーナ大公国コジモ1世の非嫡出子として宮廷で育てられていたが、わずか5歳もしくは6歳で亡くなってしまいました。幼児の首に父コジモの横画を表したペンダントを付けたこの肖像画を残すことで、子供を想う父親の悲痛な思いを慰めていたのでしょう。

          ビア・デ・メディチ

              ブロンッズィーノ〈ビア・デ・メディチの肖像〉

 この展覧会のテーマの天正遣欧少年使節四人(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)ですが、16世紀末のイタリアに一大センセーションを巻き起こし、イタリア中部から北部にいたる道中で、出迎えた各地の諸侯から歓待されたそうです。

 その中でもピサの地で待つトスカーナ大公国のフランチェスコ1世と后ビアンカ・カッペロに熱烈に歓迎されました。そこで催された歓迎の舞踏会で、伊東マンショと美女の誉れ高い大公妃ビアンカ・カッペロがペアでダンスをしたとの逸話も残っています。

2014年に奇跡的に再発見された〈伊東マンショの肖像〉は、西洋美術の歴史の中で初めて描かれた日本人の肖像画です。

 432年後の神戸の地で、伊東マンショと大公妃ビアンカ・カッペロが再会を果たしたのです。

 時空を超え、一挙にピサの舞踏会に紛れ込んでしまった気分です。

伊東マンショ

      ドメネコ・ティントレット

       〈伊東マンショの肖像〉

 

ビアンカ・カッペロ

      アレサンドロ・アッローリ

     〈ビアンカ・カッペロの肖像〉

 

(石田 邦夫)

 

 

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